★シンポジウムの趣旨
 古代日本において、葬送儀礼と歌垣がなんらかの関わりを持っていることは、魂呼ばいという観点から相聞歌と挽歌を捉える折口信夫、土師氏に管轄された野中古市の遊部の芸能(楯伏舞)と宮廷歌垣、野中史人満の挽歌を関連づける土橋寛らによって指摘がなされてきたところである。近年、曹咏梅『歌垣と東アジアの古代歌謡』が、『後漢書』(本紀二 孝献帝紀第九)に皇帝の早々に「嬥歌」が行われた記事を発見し、中国文献における「嬥歌」についても、『文選』魏都賦のそれと合わせて、葬送と歌垣が関連していることが指摘されるようになった。また、遠藤耕太郎「嬥歌とウタガキ」(『日本文学』2013年12月)は中国少数民族の葬送儀礼の具体的調査を踏まえて、葬送と祝祭的な歌垣/芸能の連続性について発言している。  
 今回のシンポジウムの趣旨は、古代日本における葬送と歌垣/芸能の関わりを整理しつつ、東アジアという視点から、万葉挽歌の生成を考えるところにある。

葬送から歌垣へ-中国少数民族の事例をモデルとして-
遠藤 耕太郎

 『令集解』葬喪令に引かれた注釈書『古記』によれば、奈良時代、太政大臣の葬送儀礼には遊部という氏族が奉仕していた。遊部はかつて、シャーマニックな儀礼によって、この世とあの世の境を隔て、荒ぶる魂を鎮める(「隔幽顕境。鎮凶癘魂」)氏族であった。しかし、奈良時代においてそれは、野中古市の人の「歌垣」のようなものであると『古記』は記す。野中古市の人の「歌垣」というのは、200人を超える渡来系氏族の男女が朱雀門や離宮で、宮廷を賛美する歌を歌いながら手を携えて歩を進めるという、中国風の「踏歌」を指す。  シャーマニックな葬送儀礼がなぜ風流な歌垣と連続するのだろうか。こうしたありようは中国の少数民族地域の葬儀ではいくつかみられるところである。本発表は、中国少数民族モソ人の葬送儀礼を調査した際の映像資料を使いながら、葬送儀礼が芸能化し風流行事「歌垣」となる機構を考えてみたい。

遊部の伝承をどう見るか-礼制と化外・遺制の俗-
上野 誠

 古代の葬礼における芸能的要素をどう見るか? これは、1980年代まで挽歌史の前史をめぐる議論として活発に議論がなされてきた問題であった。殯宮における歌舞の伝統は、挽歌とどう繋がるのか? さまざまな議論がなされてきたのであるが、どう考えても、天智天挽歌群の歌と繋がらないのである。まして、いわんや柿本人麻呂挽歌をや。いわゆる「女の挽歌」の伝統は、泣女に繋がるとか、人麻呂は遊部であったというような議論は、実証の方法がなく、今日これらの問題が論じられることはない。  そこで、史書のもつ歴史観に即して、もう一度、遊部の伝承を検討してみたいと思う。古代東アジアの史書は、儒教の礼制を上位のものとして、それ以外の俗を化外の俗と位置付けている。また、かつて存在した遺制として位置付ける傾向も顕著である。おそらく、葬礼における歌舞は、礼制の外にあるものとして、位置付けられていたのではなかろうか。その試論を、当日は申し述べたいと思う。

歌垣と踏歌・嬥歌・遊部の関係について
工藤 隆

 「ウタガキ」の漢字表記は、「歌垣」のほかに、『万葉集』では「嬥歌(ちょうか)」と表記し、「嬥歌は東国の方言でカガヒと言う」と注記している。また『常陸国風土記』の「嬥歌」にも、「地元の人はウタガキと言い、またカガヒと言う」という注が付いている。つまり、700年代の中央知識人の世界では、「カガヒ」だけでなく「ウタガキ」という発音の語も、知っている人もいるし、知らない人もいるという状態だった。中国語には無い和製漢語「歌垣」は、まだ定着しきっていたわけではなかったのである。ほかにも、「遊場」(遊(うたがき)の場(には))、「歌場」(こ此をばう宇た多が我き岐と云ふ)という表記もあった。
 さらに、外来の「踏歌」と「歌垣」との混用も生じた。その混用が、『令集解(りょうのしゅうげ)』「古記」の伝える「遊部」像にさらに混乱を加えた。野中・古市の大王(天皇)・豪族などの葬儀では、「遊部」的人物が前段に死霊鎮めの呪術的儀礼を行ない、後段で渡来系氏族が「踏歌」のようなものを演じたものと推測される。しかし、「古記」は、後段の「踏歌」のようなものを「遊部」的人物が演じたと誤解して、「遊部とは、野中・古市の人の歌垣の類のことである」という注記を付けたのであろう。