石垣島開拓集落の遺骨移し
草山 洋平

 沖縄には洗骨と呼ばれる改葬の習慣がある。周知の通り、埋葬後に改めて墓から遺体を取り出し改葬する儀礼である。この埋葬者の骨を洗う洗骨とは異なり、すでに遺骨として納められた骨(骨壺)を別の墓に移し替える“ウンチケー”と呼ばれる事例が石垣島北部にあった。本発表の対象地である明石集落は、戦後に沖縄本島からの開拓移住者により拓かれた集落である。現在の明石集落にある墓地は1987年に整備されたものであるが、それ以前は海岸付近の岩の裂け目を利用した横穴式の墓を作って死者を埋葬していた。本事例は旧式墓に残された最後の遺骨の改葬となる。この遺骨は沖縄本島に運ばれる予定であるが、本島の墓は死者が出ない限り開けることはない。本発表では集落内の旧式墓から共同墓地の仮墓への遺骨移しを、映像を交えて報告したい。

七月半 ― 中国雲南省蘭坪普米族の死者儀礼
飯島 奨

 蘭坪普米族は「給羊子」(※葬儀を指す)「七月半」「清明節」以上三つを全て行うことにより、亡くなった故人に対する儀礼が完了する。「七月半」とは簡単に言うと日本のお盆のようなものと捉えてよく、農歴七月十二日から三日間行われ、初日死者を迎え、なか日死者と休息し、最終日死者を送る。発表者は2017、2018年に三日目の儀礼を見ることができた。この儀礼では、親族である女性によって哭が行われ、それはまるで哭き歌のようである。このような死者への呼びかけ、言い換えれば生者側への引き寄せは、女性の哭き歌、或いは哭によって行われることは、東アジアでは広く見られる風俗であり、特に葬儀におけるそれは中国の漢族、少数民族、また韓国、そして以前の日本でも確認できるが、ただ、お盆のような儀礼で女性の哭が見られるのは興味深い。「七月半」についてはまだ調査の継続中であり、不明点が多いが、発表では発表者が参与観察できた、規模が小さい「七月半」の死者送り出しの場面を映像をふまえながら報告し、「七月半」における哭のはたらきについて考えたい。

映像で見る摩梭(モソ/Mosuo)人の喪葬儀礼
 ― 古代中国と古代日本の喪葬儀礼を視野に入れて ―
遠藤 耕太郎

 中国西南部雲南と四川の省境に暮らす少数民族摩梭(モソ)人(Mosuo)の喪葬儀礼は、死者の魂を呼び戻そうとする招魂儀礼を経て、死者の魂を送る送魂儀礼に至るという二次葬の構造を持つ。二次葬は、『礼記(らいき)』や『儀礼(ぎらい)』に記された、春秋戦国に遡る古代中国の喪葬儀礼や、八世紀の『古事記』や『日本書紀』に記された古代日本のそれと通じる。二次葬という大きな枠組みだけでなく、死者の魂に酒食を献じる儀礼、悪霊払いの所作、殯内部での所作、またその際に唱える呪詞や哭き歌の詞章など、具体的な面での共通性もかなりある。 本発表では、2000年1月と2016年8月に発表者が参与、録画したモソ人の喪葬儀礼の映像を解説しながら、東アジアの喪葬儀礼の共通性についても考えてみたい。稲の遺伝学上の成果を踏まえて、佐藤洋一郎(「日本の稲―その起源と伝播―」・にひなめ研究会編『新嘗の研究4』・第一書房・1999)は日本への稲の伝播を、春秋戦国時代をピークとする大混乱で、長江流域に暮らす人々は稲と稲作を携えて四方に拡散した。このうち、西に逃れた人々は稲をアッサムから雲南に伝え、東に逃れた人々の一部は日本にまで達したと考えている。こうした人々の流れが、喪葬儀礼の共通性としても現れているのではないだろうか。

哭き歌を歌う女性たち。彼女たちの前方に棺が置かれている。(2016年8月 雲南省寧蒗県永寧郷)