【シンポジウム】

シンポジウム「歌と文字」に向けて
真下 厚

日本古代文学においては、「歌謡から和歌へ」という文学史的な流れのもとに「声から文字へ」、「集団から個人へ」という問題として論じられ、歌を書くことによって個人の歌の自立、個性や独創性、抒情、推敲、批評などが始まったとされてきた。これらの問題について、歌を書く中国西南地域少数民族においてはどうであろうか。こうしたうちのかなりなことは声の世界においてなされていたり、その萌芽がみられたりするように思われる。さらに、文字によって残された歌の資料からは知り得ない、歌は何のために書かれるのか、歌の書かれた文書は社会的にどのように機能するのか、などの問題を解明することで、最終的には「歌を書くことによって何が可能となるのか」という一般的な問題に迫ってゆきたい。その一方で、各民族・各地域における個別的な問題も大きい。歌をどのように書くのか。その場合、伝承される歌と次々に生成される歌とでは異なるのかどうか。また、だれが書くのか、などなど。もちろん、これらは先の一般的な問題と分かちがたく結びついている。本シンポジウムでは、長年にわたって声の歌の世界を調査し、研究を深めてきたパネリスト3名の報告にもとづいて上記のテーマについての研究を大きく進展させ、学界を活性化させることができれば、と願うものである。声の歌の世界を熟知するパネリストの方々によって、文字の力の範囲を見定める提言がなされるよう期待したい。


【シンポジウム要旨】

声の世界が文字化されるとき
富田 美智恵

中国西南少数民族には民族固有の文字がない、もしくは一般に普及していない地域が多い。そうした地域に住む人々が自らの歌を書こうとするとき、選択肢となる文字の一つが漢字である。だが、漢字を用いて文字化された歌は、はたして声の世界を忠実に写したものといえるのだろうか。漢字で歌を表記しようとするとき、そこには漢字の選択や字数の統一といった意識が働いていることが垣間見える。本報告では、雲南省の白族や湖南省の湘西苗族を例に、文字社会へまだ完全に移行しきっていない地域の人々が、歌という声の世界を漢字を利用して文字化しようとするときに、どのような現象が起こりうるかを考えてみたい。


声のうたと文字のうた
手塚 恵子

声のうたと文字のうたには違いがあるのかという問いには、二種類の異なる問いかけが含まれている。「作歌するにあたって、文字を書きながら作ったうたと口頭だけで作ったうたの違い」と「口頭だけで作ったうたのなかで、識字者と非識字者の作ったうたの違い」である。
本発表では、壮族の掛け合いうたの記録のなかから、①非識字者が口頭で作ったうた②識字者が口頭で作ったうた③文字を書きながら作ったうたの三種類のうたを提示しながら、①②③の共通点と差異を考えていきたい。
なお比較しやすいように、①②③のうたは、似通ったシチュエーションでうたわれたものを使用することとする。


『万葉集』人麻呂歌集「七夕歌」の方法
遠藤 耕太郎

中国辺境に暮らす人々の地域に文字が伝わって以来、声の歌と文字の歌はずっと融合編成し続けている。そのありようは、現代の中国少数民族の声の歌と文字の歌のあり方をモデルとするとかなり具体的にイメージすることができる。
本発表では、『万葉集』人麻呂歌集の七夕歌を取り上げ、牽牛や織女といった登場人物の立場で歌うことがなぜ可能になったのかについて考えてみたい。漢詩にも七夕伝説を歌うものはたくさんあるが、そのほとんどは地上の第三者の立場で歌っており、登場人物の立場で歌うことは、漢詩世界とはかなり異質だからだ。
その際、雲南省少数民族ペー族の、『梁山伯と祝英台』伝説を受容した語り芸のありようをモデルとしてみたい。