【シンポジウムの趣旨】

 本学会は2001年度発足以降、主に中国西南部の諸民族の歌掛け文化についての調査研究を重ねてきた。こうした中で、彼らの歌掛け文化は恋の歌掛けばかりでなく、歌掛けの機会やその形態において多様な様相を呈すること、また、同一民族にあっても地域的な異なりからその様相が異なる場合のあることもわかってきた。
 本シンポジウムでは調査映像を紹介しながら、歌掛けの機会と形態を軸に諸民族の歌掛け文化の位置づけを論じ、今日のこうした様相への展開を可能な限り想定することを主たる目的とする。
 また、このシンポジウムを利用して、会員の所蔵している歌掛け関係の映像記録を、所定の様式に沿ったインデックスのもとにアジア民族文化学会のもとに蒐集し、データとして後世に受け継ぎたいと考えている。


【シンポジウム発表要旨】

「歌掛けの持続の論理」のさらなる探求
岡部 隆志

 私が本格的な歌掛けに出会ったのは1998年、雲南省大理州洱源県ツービー湖湖畔での約1時間に及ぶ歌掛けであった。この掛け合いの全容を工藤隆との共著『中国少数民族歌垣調査全記録1998』(大修館書店2000年刊行)に掲載した(VHS映像も同時に発売)。また、この掛け合いについての分析を「白族『海灯会』にける歌掛けの持続の論理」として同書に載せた。その内容は、歌掛けは持続することを目的としていて、その方法として、歌い手たちは恋愛の成就に向かって掛け合いを進めながらその流れに抗するような掛け合いを絶えず差し挟み、掛け合いを持続させていく、というものである。この歌掛け体験のあと、白族の歌掛けを何度も調査しそれを記録してきた。それらは、恋愛の成就を目的にする掛け合いというよりは、歌い手が同性同士だったり既婚者や老人だったりと、歌の掛け合いそのものを楽しむケースが多かった。一方、時には掛け合いがうまくいかずケンカになって別れるようなケースもあった。だが、それらの多様な歌掛けにおいても最初の歌掛け体験で分析した「歌掛けの持続の論理」は歌掛けの重要な原理として取り出せる。白族の歌掛けで把握したこの歌掛けの原理が、歌掛けという文化にとって何を意味するのか、また、他の少数民族の歌掛けにおいてもあてはまるのか、それを考えて行くことがこれからの課題である。


長詞型の歌掛けはいかにして成立するのか
梶丸 岳

 本発表ではこれまで梶丸(2013)などで発表してきた貴州省羅甸県のプイ族がプイ語で歌う掛け合い「プイ歌」を主な事例として、長詞型の歌掛けがどのように成立しているのか、「掛け合い≒対話」という側面に焦点を当て、またラオスの事例も踏まえながら考える。
 プイ歌はジャンルごとに決まった流れに沿って歌を掛け合っていく。今回事例にする「年歌」では年越しに向けた準備を時系列に沿って歌い交わしていく。掛け合いは1ターンにかかる時間が15分から40分近くまでと非常に長い。この非常に長いターンにおいて注目されるのは、「自分が相手と対話している」という状況自体を指し示すフレーム言及的な歌詞である。そして、プイ歌においては長く歌えることが技術の高さを示すものとして評価されている。
 これはラオスの「カップ・サムヌア」という別の長詞型歌掛けにもみられる特徴である。この事例を傍証として、歌掛けの1ターンごとの歌詞を長くする規範としてフレーム言及があること、そして歌の長さを指向する価値観があることを本発表では示す。これが岡部(2000)の言う「歌掛けの持続の論理」と相俟ったとき、「何日でも歌い続けられる」という掛け合いが出来上がるのである。


夜通しうたを掛け合う技術と作法
手塚 恵子

 武鳴県の壮族の掛け合い歌の多くは、歌墟(場所と日取りを変えて春と秋に二ヶ月に渡って行われるうたの掛け合い祭)でうたわれる。歌墟の場所は必ずしも交通の便利な場所とも限らず、またうたの掛け合いは主として夜に行われることから、歌い手聴き手双方とも、夜半にうたの掛け合いが頓挫することは、できれば避けたい事態である。
 一方で、壮族のうたの掛け合いは、どちらの歌が上手いかを、即興で作る歌詞の比喩と押韻において、勝負するものでもある。相手を打ち負かすことと、8時間あまりにわたってうたの掛け合いを継続していくという、相反することがらを成立させている技術と作法について、事例をあげて、考えてみたい。
 歌墟についてはデータベースに収めた「中国広西壮族自治区武鳴県陸斡、羅波、両江、馬頭の定期市と歌墟1989.MP4」、うたの掛け合いについては同じく「中国広西壮族自治区武鳴県苞橋三月二十1993.4.11.MP4」所収の資料を用いる予定である。


歌掛け歌の比喩
遠藤 耕太郎

 本発表では、歌掛け文化の展開を比喩という側面から捉えてみたい。ペー族の歌掛けはあるストーリーに則って行きつ戻りつし、その都度よく知られた比喩表現が表れる。文字を通して歌掛けを詠んでいる私たちは、行きつ戻りつするなかに表れるスリリングな駆け引きに興味を持つが、彼らの興味はそのような駆け引き以上に、それによって導き出される比喩表現にあるのではないかと思っている。その比喩は、歌を掛け合う一方が比喩、もう一方が人事を歌うという場合もあるし、一人で比喩と人事を歌う場合もある。
 ナシ族にも一人で比喩と人事を歌う歌があるが、さらに比喩と人事を同音異義語で繋ぐ、掛詞のような技法(ゼンジュという)がある。共同体的なよく知られたゼンジュもあるが、同音異義語を用いるということはそれだけ、言葉による機智に意識を用いることになる。さらにナシ族には文字を用いて発想する人々がいるが、彼らは推敲をしながらより良いゼンジュを作ろうとするし、またそうやってできたゼンジュを文字で残しておこうとする。その場合に長く続く歌掛けは、短く完結したものとなる。